みなさん、大変お待たせしました(笑)。好評の?連載『古の競馬場を訪ねて』・・・今回は岐阜県に昭和初期~戦後間もなくまで存在していたといわれる競馬場の取材で、岐阜県岐阜市にあります『岐阜県図書館』を6月7日(日)及び6月14日(日)の二回に渡って伺いました。なかなか名古屋から岐阜というのは私にとっては行く機会が少なく、笠松競馬場か取引先に行くぐらいですので、今回の取材を通して様々な岐阜県に会えることが、楽しみであったりしています。
今回の取材も前回の愛知県図書館同様にレファレンスメールを利用させて頂き、図書館内の蔵書を事前に調べてもらい、それを元に色々と調べてきました。先ずは岐阜県の競馬場の歴史に関して、ご紹介します。前回『地方競馬史 第一巻』はご紹介しましたが、今回新たに取材で下記の蔵書が加わりました。
岐阜県競馬の概要(昭和28年8月1日現在/岐阜県農林部競馬課)
岐阜県競馬沿革史(1970年5月1日発行/岐阜県町村競馬組合)
特に前者は手書き(ガリ版印刷)と『昭和』を感じさせる一冊でした。紙質もわら半紙ぽかったですし(笑)。まあ余談はさておき、岐阜県の競馬場の歴史について、この三冊を元に書いていきます。なお、どの項目がどの蔵書からということは省略するのと、旧漢字は変えてありますのでご了承ください。
昭和2年(1927年)農林・内務省令地方競馬規則公布(8月27日)により下記の場所が競馬開催候補地になる
・岐阜市付近
・大垣市付近
・東濃中津町付近(中津町駒場西山)
・西濃高須町付近(高須高女大江川畔)
・飛騨高山
この中より中津競馬倶楽部設立(昭和2~8年)、高須競馬会設立(昭和2~5年)により中津競馬場及び高須競馬場にて競馬が開催される⇒当初は単勝式のみの発売、山間僻地の立地条件のため経営は困難になる
昭和3年(1928年)岐阜競馬倶楽部が組織(岐阜県競馬倶楽部との呼称もあり)
・宮崎競馬場の誘致(実現せず)
・高須競馬場の買収(流血事件等で進展せず)
昭和4年(1929年)岐阜競馬倶楽部が岐阜市美園町において岐阜競馬株式会社に改組(正確な時期は不明)
昭和5年(1930年)笠松競馬倶楽部が組織
昭和6年(1931年)各務原競馬場開設(高須競馬場の買収による/稲葉郡鵜沼村/8月31日許可/10月24日・第1回開催)
・主催:岐阜県畜産組合連合会
・実権:岐阜競馬株式会社
昭和8年(1933年)地方競馬規則の改正
昭和9年(1934年)中津競馬場が羽島郡八剣村地内に移転許可(9月10日)~羽島郡笠松町外奈良地内に変更許可
昭和10年(1935年)笠松競馬場工事完了(10月10日)~第1回開催(11月9日)
・主催:岐阜県畜産組合連合会
・実権:笠松競馬倶楽部
同年頃、両濃地方への競馬場誘致運動の機運が高まり、候補地として安八郡三城村、鶴里村、南平野村等が挙がる
養老競馬倶楽部が組織
昭和11年(1936年)養老公園下に決定
昭和12年(1937年)養老競馬場の施行許可
昭和13年(1938年)養老競馬場開設(養老郡養老村字白石/12月18日・第1回開催)
昭和14年(1939年)軍馬資源保護法公布
・各務原競馬場の廃止
・養老競馬場の廃止
昭和18年(1943年)この年まで笠松競馬場にて鍛練馬競争を実施
昭和20年(1945年)終戦
昭和21年(1946年)地方競馬法公布(議員立法/11月20日)
闇競馬の時代
・笠松競馬場にて岐阜県馬匹組合連合会主催の競馬開催
・本巣郡糸貫川原
・山県郡千疋川原
・武儀郡稲口川原
・吉城郡古川町
・揖斐郡大野町
昭和22年(1947年)笠松競馬場にて地方競馬法による第1回開催
昭和23年(1948年)北方競馬組合が組織、本巣郡真桑村に北方競馬場を設置
・北方競馬場にて地方競馬法による第1回開催(3月)
・新競馬法公布(公営競馬として笠松競馬及び北方競馬が開催)
昭和29年(1954年)北方競馬場廃止
以上が昭和初期から戦後にかけての岐阜県の競馬場の歴史です。笠松競馬場につきましては、この他に多くの資料が存在していましたが、今回は廃止になった競馬場を中心に書いていますので割愛させて頂きました。
さて、岐阜県の競馬場の歴史については図書館のレファレンスメールで蔵書を調べて頂いており、歴史的な資料は多く残っていたんですが、今回は実際の場所(をはっきり明示している地図等)という点では資料がほとんどない状態でした。これはレファレンスメールでも分かっていたことだったんですが、『どうしても調べたいよな~?』と考えていた時、ふとお隣のコーナーが目に入ってきたんです。それは・・・
世界分布図センター
ここは15万点を超える地図・分布図・地図関係の図書が蔵書としてあり、かなり有名なコーナーだったんです。それでレファレンスメールにはないと書いてはあったんですが、ダメもとで尋ねてみることにしました。最初は昭和50年頃までの住宅地図や航空写真などを確認していたんですが、そこにはやはり明記されていずに場所は確認できないかな・・・と諦めかけてもいたんですが、図書館の方が色々と残っている資料を調べて下さり、国土地理院関係の二万五千分の一、五万分の一の地図で明治から戦後にかけて測量~発行されたものを探し出して頂き、ついに!!! 様々な競馬場を発見することができました。やはり図書館の方は偉大です(笑)。蔵書の中から要求に合うものをすべて探し出してくれますから。それも今までに見たことのない資料ばかりですから、ネットの時代とはいえ、まだまだ図書館には(図書館の方には)敵わないかもしれません!!!
ただ最後まで、この地図の中で分からなかったのが北方競馬場でした。どうみんなで目を凝らしてもその存在が見えてこなかったんです。場所は『岐阜県競馬の概要』に残っていた『北方競馬場配置図』の本巣高校敷地と漠然とした住所で特定できていたんですが、それでも場所がないんですよね~。
北方競馬場配置図(岐阜県競馬の概要/昭和28年より)
この配置図を元にした北方競馬場があったと思われる場所(原寸大)
本巣高校から特定してみると・・・(中学校の表記がそれ、道路も整合性が取れています)
その時!! 図書館員の方が『あること』に気付かれたんです!! それは・・・
『空中写真に写っているかも?』
『空中写真???』
この空中写真というのは戦後間もなく撮影された『米国陸軍空中写真』と言われるもので、米軍が日本の国土調査として空中写真(航空写真)を撮影していたんです。その中から岐阜県に関連のあるものを、この世界分布図センターでは収集に努めているとのことだったんです。これは私も全く知らない話でした。それで該当する場所を探して頂き写真を覗いてみると・・・
北方競馬場(米国陸軍空中写真/1948年3月27日撮影)
見事!!! その存在が浮き彫りになりました!!! これには一同、大感動でした(笑)。最後まで粘って発見した女性の図書館員の方は『よくやった!!』と上司に頭を撫でられていたぐらいですから(笑)。この写真を機に他の競馬場の写真も現存しているものを、調べて、見せて頂き、改めてお礼を述べて帰ってきたのが今回でした。この米国陸軍空中写真、門外不出?とは言いませんが、取扱いは手袋着用という貴重なもの、今回はたぶん?皆さんもなかなかお目にかかれることは少ない写真と思いますので、ぜひ同時に探して頂きました地図と併せてご覧ください!!!
高須競馬場か?(場所を結局は特定できず。市街地左上の川沿いの楕円が跡地?)
高須町市街地左上をご覧ください。高須競馬場の跡地でしょうか?
地図のデータは大正9年測図、昭和7年修正測図、昭和22年資料修正とあります。ここは米国陸軍空中写真では確認できませんでした。
中津競馬場(明治44年測図、昭和8年要部修正測図、昭和24年応急修正)
最下部の右隅に競馬場の記述が残っていました
残念ながら中津競馬場の米国陸軍空中写真は残っていませんでした。
各務原競馬場(大正9年測図、昭和7年修正測図)
非常にはっきりと所在地が残っていました。さらに拡大してみます。
そして各務原競馬場は米国陸軍空中写真も残っておりました。それでは、ご覧ください!!!
撮影時期が1948年3月27日ですので、廃止~戦争~終戦と大きな節目の10年だったと思いますので、輪郭も様々に転用されておぼろげになっているのでは?と感じさせるシルエットではありますが、それでもはっきりと一周1マイルの大きな競馬場の跡は見てとれると思います。最後は養老競馬場になります。
養老競馬場(明治24年測図及び縮図、昭和7年第二回修正測図及び縮図、昭和20年部分修正測図、昭和24年応急修正)
養老公園入口にその存在を確認できました
米国陸軍空中写真(1947年12月8日)にも、はっきりと存在が確認できました
以上が今回の岐阜県図書館にて行ったきた取材になります。今回も様々な貴重な資料、特に米国陸軍空中写真なる存在を知ることができたのは、新しい発見(これは廃止になった競馬場ということではなく)になりました。これもこの『古の競馬場を訪ねて』という連載を始めなければ分からなかったこと!!! また今回も図書館員さんたちの知識、熱意をヒシヒシと感じることができた(交流できた)ことも大きな喜びとなりました。これで一層、フィールドワークが楽しみになってきました。これからこの貴重な資料とともに現地に出かけて、またみなさんに『古の競馬場』の現在を見て頂きたいなと思っています。なかなか思うような取材も、それを生かした記事も(ここが一番問題ですが・・・笑)出来ないんですが、私の新しい発見が皆さんと共有できれば、それが一番嬉しいことだと思っています!!! 続きは気長に?お待ちくださいね!!!
最近のコメント