今日の最初に訪れたのは、愛知県畜産総合センターでした。ここは以前「愛知県種畜場」だった所で、岡崎競馬が最初に行なわれた場所でした。
残念ながら管理室はお休みとのこと。平日に来ないと話は聞けないようですが、まあ現地に来れただけでも良かった と思い、気分を変えて次に向います。
それでは岡崎競馬場のフィールドワークに出かけて来ます !!!
あれっ?写真は?
モーニングで吉野家にて朝定食(ハムエッグ納豆定食)を頂いております…ご当地グルメじゃなくてスイマセン !
早朝からの執筆活動?となりましたが(今は朝の4時を過ぎたところです)、昨日は気持よく、心地よく、ビールと過ごし(笑)食事もとらず、風呂にも入らず寝てしまったので、早朝から食事、風呂と済ませ空いた時間にVOXに向かった次第です!!!
今回は『岡崎競馬場編・その2』ということで、今までに調べてきた資料や地図を、経過報告ということでご紹介しようかなと思っています。岡崎競馬場に関しては、比較的?資料が多く残っている競馬場ですので、この後も取材等を続けていくと、新たな資料が出てくる可能性がありますので、ここで一旦まとめ?そんな感じの記事になります。
取材に関しては『その1』でもご紹介しました岡崎市図書館、そして昨日も行ってまいりました愛知県図書館の蔵書がメインになっています。歴史的な資料として毎回登場します『地方競馬史 第一巻』に加え、今回は二冊ご紹介します。
岡崎市戦災復興誌(昭和29年/岡崎市役所/東海新聞社)
岡崎南風土記(平成13年/大石収宏)
この他に新編 岡崎市史にも資料が残っているようですが、これはまた後日ということでご了承ください。それでは先ず、岡崎競馬場の概略についてご紹介します。
大正12年(1923年)愛知県種畜場設立(岡崎市美合町)
・愛知県畜産組合連合会主催にて種畜場用地で競馬が開催される
地図の中心が愛知県種畜場の位置です。地図の左下には岡崎競馬場の跡地も見えます。
大正13年(1924年)岡崎競馬倶楽部が組織
・種畜場用地にて常設馬場
昭和2年(1927年)地方競馬法公布
・岡崎競馬場は廃止~名古屋競馬場(名古屋競馬協会)へ
昭和6年(1931年)豊橋競馬場を岡崎競馬倶楽部が譲渡(5月)
・岡崎競馬株式会社の団体が設立(9月)
・岡崎市羽根町大字奥山地内の岡崎競馬場に移転
・愛知県畜産組合連合会が借受開催
『紡績工場』から少し西に行った楕円形の池の周りに競馬場の跡があります
昭和9年(1934年)岡崎競馬場が愛知県畜産組合連合会の所有になる
写真から岡崎競馬場は右回りだったことがうかがえます。また上右の写真は池の配置から2コーナー付近からの撮影と思われます。
昭和14年(1939年)軍馬資源保護法の公布
・岡崎競馬場が鍛練馬場となり鍛練馬競争を実施
昭和18年(1943年)愛知県馬匹組合連合会に移管される
昭和20年(1945年)終戦
昭和21年(1946年)地方競馬法公布
・岡崎競馬場が再開される
昭和23年(1948年)新競馬法公布
・地方競馬開催都市の認可
・愛知県に移管
昭和28年(1953年)岡崎競馬場は廃止、馬育成場に転用
以上が岡崎競馬場の概略になります。岡崎競馬場に関しては、戦後まで開催されていたこともあり、場所の特定なども比較的容易でした。ただ今回入手した地図上では少し分かりにくかったので、次回はもう少しはっきりした地図を探したいなと考えています。また戦後復興誌は岡崎市役所の発行なんですが、当時の戦災復興には競馬(競馬場)は欠かすことのできない収入源として認められ、この蔵書にもそんな跡が見られました。
挿絵には愛知県種畜場及び岡崎競馬場が明記されています
裏表紙(本来はカラー)の中心より少し下にも競馬場の絵があります
また1962年の岡崎市住宅明細図(新日本市内明細地図社発行)にはこんな記載もありました
そして得意の?米国陸軍空中写真です
最後の米国陸軍空中写真に関して、愛知県図書館にて国土地理院のWEBSITEを教えて頂き、確認することができました(ありがとうございました)。この写真からも4コーナー奥にポケットがあったことから、右回りの競馬場だったことが分かります。
これらの資料を携えて次回は豊橋競馬場に続く第二弾のフィールドワークに出かけてきたいと思っています。面影は残っているのかな~少しでもそんなことが前回同様に感じられたら、発見出来たら嬉しいなと今からワクワクしております。
15:41 VOX:編集後記「古の競馬場を訪ねて」岐阜県の競馬場・概論。今回は二週続けて岐阜県図書館にお邪魔したんですが、名古屋からは近いようで遠く、実は道中が一番長かったように思います。
15:44 それでも岐阜県図書館(世界分布図センター)所有の、米国陸軍空中写真に出会えたのは、一番の収穫だったと思っています‼!
15:47 一回目は子供達も連れて行ったんですが、あまりの取材時間の長さに待ちぼうけで可哀想になって、二回目は一人で行ったんですよね〜‼!
15:49 ただ道中が長かったので、往復に色々と考えごとが出来て、それはそれで良かったかな〜と思っています‼!
15:52 今回の取材で感じたことは…ネットの全てが真実ではない‼! ということと、ネットの情報が全てではない‼! ということでしょうか。
15:55 検索サイトで出て来た結果はコンピュータが検索した(調べた)人間の情報。書かれていないことは、もちろん検索されません。
15:58 でも検索されない情報(書かれていない情報)は、この世にまだまだ数多く存在しています。ネットの情報が全てではない…改めてそう感じた今回の取材でした‼!
18:08 なぜか「父の日」ということでホーム手巻き寿司パーティのサプライズ‼!
18:15 こんな感じです‼! みんなありがとうございます‼! twitpic.com/7zs3z
みなさん、大変お待たせしました(笑)。好評の?連載『古の競馬場を訪ねて』・・・今回は岐阜県に昭和初期~戦後間もなくまで存在していたといわれる競馬場の取材で、岐阜県岐阜市にあります『岐阜県図書館』を6月7日(日)及び6月14日(日)の二回に渡って伺いました。なかなか名古屋から岐阜というのは私にとっては行く機会が少なく、笠松競馬場か取引先に行くぐらいですので、今回の取材を通して様々な岐阜県に会えることが、楽しみであったりしています。
今回の取材も前回の愛知県図書館同様にレファレンスメールを利用させて頂き、図書館内の蔵書を事前に調べてもらい、それを元に色々と調べてきました。先ずは岐阜県の競馬場の歴史に関して、ご紹介します。前回『地方競馬史 第一巻』はご紹介しましたが、今回新たに取材で下記の蔵書が加わりました。
岐阜県競馬の概要(昭和28年8月1日現在/岐阜県農林部競馬課)
岐阜県競馬沿革史(1970年5月1日発行/岐阜県町村競馬組合)
特に前者は手書き(ガリ版印刷)と『昭和』を感じさせる一冊でした。紙質もわら半紙ぽかったですし(笑)。まあ余談はさておき、岐阜県の競馬場の歴史について、この三冊を元に書いていきます。なお、どの項目がどの蔵書からということは省略するのと、旧漢字は変えてありますのでご了承ください。
昭和2年(1927年)農林・内務省令地方競馬規則公布(8月27日)により下記の場所が競馬開催候補地になる
・岐阜市付近
・大垣市付近
・東濃中津町付近(中津町駒場西山)
・西濃高須町付近(高須高女大江川畔)
・飛騨高山
この中より中津競馬倶楽部設立(昭和2~8年)、高須競馬会設立(昭和2~5年)により中津競馬場及び高須競馬場にて競馬が開催される⇒当初は単勝式のみの発売、山間僻地の立地条件のため経営は困難になる
昭和3年(1928年)岐阜競馬倶楽部が組織(岐阜県競馬倶楽部との呼称もあり)
・宮崎競馬場の誘致(実現せず)
・高須競馬場の買収(流血事件等で進展せず)
昭和4年(1929年)岐阜競馬倶楽部が岐阜市美園町において岐阜競馬株式会社に改組(正確な時期は不明)
昭和5年(1930年)笠松競馬倶楽部が組織
昭和6年(1931年)各務原競馬場開設(高須競馬場の買収による/稲葉郡鵜沼村/8月31日許可/10月24日・第1回開催)
・主催:岐阜県畜産組合連合会
・実権:岐阜競馬株式会社
昭和8年(1933年)地方競馬規則の改正
昭和9年(1934年)中津競馬場が羽島郡八剣村地内に移転許可(9月10日)~羽島郡笠松町外奈良地内に変更許可
昭和10年(1935年)笠松競馬場工事完了(10月10日)~第1回開催(11月9日)
・主催:岐阜県畜産組合連合会
・実権:笠松競馬倶楽部
同年頃、両濃地方への競馬場誘致運動の機運が高まり、候補地として安八郡三城村、鶴里村、南平野村等が挙がる
養老競馬倶楽部が組織
昭和11年(1936年)養老公園下に決定
昭和12年(1937年)養老競馬場の施行許可
昭和13年(1938年)養老競馬場開設(養老郡養老村字白石/12月18日・第1回開催)
昭和14年(1939年)軍馬資源保護法公布
・各務原競馬場の廃止
・養老競馬場の廃止
昭和18年(1943年)この年まで笠松競馬場にて鍛練馬競争を実施
昭和20年(1945年)終戦
昭和21年(1946年)地方競馬法公布(議員立法/11月20日)
闇競馬の時代
・笠松競馬場にて岐阜県馬匹組合連合会主催の競馬開催
・本巣郡糸貫川原
・山県郡千疋川原
・武儀郡稲口川原
・吉城郡古川町
・揖斐郡大野町
昭和22年(1947年)笠松競馬場にて地方競馬法による第1回開催
昭和23年(1948年)北方競馬組合が組織、本巣郡真桑村に北方競馬場を設置
・北方競馬場にて地方競馬法による第1回開催(3月)
・新競馬法公布(公営競馬として笠松競馬及び北方競馬が開催)
昭和29年(1954年)北方競馬場廃止
以上が昭和初期から戦後にかけての岐阜県の競馬場の歴史です。笠松競馬場につきましては、この他に多くの資料が存在していましたが、今回は廃止になった競馬場を中心に書いていますので割愛させて頂きました。
さて、岐阜県の競馬場の歴史については図書館のレファレンスメールで蔵書を調べて頂いており、歴史的な資料は多く残っていたんですが、今回は実際の場所(をはっきり明示している地図等)という点では資料がほとんどない状態でした。これはレファレンスメールでも分かっていたことだったんですが、『どうしても調べたいよな~?』と考えていた時、ふとお隣のコーナーが目に入ってきたんです。それは・・・
世界分布図センター
ここは15万点を超える地図・分布図・地図関係の図書が蔵書としてあり、かなり有名なコーナーだったんです。それでレファレンスメールにはないと書いてはあったんですが、ダメもとで尋ねてみることにしました。最初は昭和50年頃までの住宅地図や航空写真などを確認していたんですが、そこにはやはり明記されていずに場所は確認できないかな・・・と諦めかけてもいたんですが、図書館の方が色々と残っている資料を調べて下さり、国土地理院関係の二万五千分の一、五万分の一の地図で明治から戦後にかけて測量~発行されたものを探し出して頂き、ついに!!! 様々な競馬場を発見することができました。やはり図書館の方は偉大です(笑)。蔵書の中から要求に合うものをすべて探し出してくれますから。それも今までに見たことのない資料ばかりですから、ネットの時代とはいえ、まだまだ図書館には(図書館の方には)敵わないかもしれません!!!
ただ最後まで、この地図の中で分からなかったのが北方競馬場でした。どうみんなで目を凝らしてもその存在が見えてこなかったんです。場所は『岐阜県競馬の概要』に残っていた『北方競馬場配置図』の本巣高校敷地と漠然とした住所で特定できていたんですが、それでも場所がないんですよね~。
北方競馬場配置図(岐阜県競馬の概要/昭和28年より)
この配置図を元にした北方競馬場があったと思われる場所(原寸大)
本巣高校から特定してみると・・・(中学校の表記がそれ、道路も整合性が取れています)
その時!! 図書館員の方が『あること』に気付かれたんです!! それは・・・
『空中写真に写っているかも?』
『空中写真???』
この空中写真というのは戦後間もなく撮影された『米国陸軍空中写真』と言われるもので、米軍が日本の国土調査として空中写真(航空写真)を撮影していたんです。その中から岐阜県に関連のあるものを、この世界分布図センターでは収集に努めているとのことだったんです。これは私も全く知らない話でした。それで該当する場所を探して頂き写真を覗いてみると・・・
北方競馬場(米国陸軍空中写真/1948年3月27日撮影)
見事!!! その存在が浮き彫りになりました!!! これには一同、大感動でした(笑)。最後まで粘って発見した女性の図書館員の方は『よくやった!!』と上司に頭を撫でられていたぐらいですから(笑)。この写真を機に他の競馬場の写真も現存しているものを、調べて、見せて頂き、改めてお礼を述べて帰ってきたのが今回でした。この米国陸軍空中写真、門外不出?とは言いませんが、取扱いは手袋着用という貴重なもの、今回はたぶん?皆さんもなかなかお目にかかれることは少ない写真と思いますので、ぜひ同時に探して頂きました地図と併せてご覧ください!!!
高須競馬場か?(場所を結局は特定できず。市街地左上の川沿いの楕円が跡地?)
高須町市街地左上をご覧ください。高須競馬場の跡地でしょうか?
地図のデータは大正9年測図、昭和7年修正測図、昭和22年資料修正とあります。ここは米国陸軍空中写真では確認できませんでした。
中津競馬場(明治44年測図、昭和8年要部修正測図、昭和24年応急修正)
最下部の右隅に競馬場の記述が残っていました
残念ながら中津競馬場の米国陸軍空中写真は残っていませんでした。
各務原競馬場(大正9年測図、昭和7年修正測図)
非常にはっきりと所在地が残っていました。さらに拡大してみます。
そして各務原競馬場は米国陸軍空中写真も残っておりました。それでは、ご覧ください!!!
撮影時期が1948年3月27日ですので、廃止~戦争~終戦と大きな節目の10年だったと思いますので、輪郭も様々に転用されておぼろげになっているのでは?と感じさせるシルエットではありますが、それでもはっきりと一周1マイルの大きな競馬場の跡は見てとれると思います。最後は養老競馬場になります。
養老競馬場(明治24年測図及び縮図、昭和7年第二回修正測図及び縮図、昭和20年部分修正測図、昭和24年応急修正)
養老公園入口にその存在を確認できました
米国陸軍空中写真(1947年12月8日)にも、はっきりと存在が確認できました
以上が今回の岐阜県図書館にて行ったきた取材になります。今回も様々な貴重な資料、特に米国陸軍空中写真なる存在を知ることができたのは、新しい発見(これは廃止になった競馬場ということではなく)になりました。これもこの『古の競馬場を訪ねて』という連載を始めなければ分からなかったこと!!! また今回も図書館員さんたちの知識、熱意をヒシヒシと感じることができた(交流できた)ことも大きな喜びとなりました。これで一層、フィールドワークが楽しみになってきました。これからこの貴重な資料とともに現地に出かけて、またみなさんに『古の競馬場』の現在を見て頂きたいなと思っています。なかなか思うような取材も、それを生かした記事も(ここが一番問題ですが・・・笑)出来ないんですが、私の新しい発見が皆さんと共有できれば、それが一番嬉しいことだと思っています!!! 続きは気長に?お待ちくださいね!!!
10:58 VOX(ブログ)より先にTwitterに復帰!‼ 色々とご心配をおかけしましたが、今まで通り気ままに書いて行きます!‼
11:09 毎年、最後の採血だけは苦手。いわゆる注射でございます!‼
11:45 それでは先週に引き続き、古の競馬場を訪ねて…の取材で、岐阜市に行ってきます!‼
12:01 名四空いてるな〜って愛知の人しか分からないか?
12:19 飛島村で白バイ出現!‼ 前のクルマが御用に…天気もいいし、道も空いているので、気をつけよう!‼
12:46 iPod classicからロクシー・ミュージックのナイチンゲール(サイレン)。いつ聴いても最高の一曲!‼ でしょ?
12:53 川では水上バイクや釣り、河川敷ではサッカー、野球にバーベキューとそれぞれの日曜日が、いい感じ!‼
14:38 岐阜県図書館には素晴らしき逸品あり!‼ 二週に渡って面白い時間を過ごしました。あれ?本編の中京開催は?
14:59 帰り道に、もう一箇所よるか?
15:22 今日の発見!‼ ナビよりiPhoneの方が賢い!‼
15:42 素人の突撃取材が全て上手く行くはずもない。だから余計に面白いかも?
午前中までは時折、激しい雨が降っていた愛知県内ではありましたが昼前には雨も止み、何とか今回のシリーズ『古の競馬場を訪ねて』の初めてのフィールドワークを行うことができました。今回は愛知県の東、渥美半島の根元にあります愛知県豊橋市にあった『豊橋競馬場』を訪ねてきました。前回の取材で愛知県図書館にて様々な貴重な蔵書を見せて頂き、期待に胸を膨らませながらの豊橋行きになったんですが、今回は出鼻で豊橋図書館休館!! という憂き目にあい、多難なスタートを予感?させるものになりました。ただ、今回も多くの方々に出会ったりもして、いつものように人と出会える楽しい旅となりました。まずは簡単に『豊橋競馬場』の概略をご紹介します。
大正10年(1921年) 愛知県主催の愛知県畜産共進会が豊橋にて開催。その協賛事業として北設楽郡畜産組合主催の競馬が歩兵第18連隊練兵場にて行われる。
大正14年(1925年) 豊橋競馬倶楽部が結成される
この頃に豊橋競馬場が新設、愛知県畜産組合連合会主催にて競馬が行われる。
昭和6年(1931年)豊橋競馬場は岡崎競馬倶楽部が譲り受け移転する。
以上が『地方競馬史 第一巻』の愛知県に記述されていた歴史として残っています。実際に愛知県図書館にて残っている文献等を調べてみたんですが、愛知県図書館には文献は残っていませんでした。ただ、やはり『競馬=賭博』と考えられいた時代かもしれませんので、公式な郷土史等には残っていないのは仕方がないことかもしれません。また今回、お邪魔しようと思っていた豊橋中央図書館にも同じように文献としては残っていないようでした(レファレンスメールにて)。そんな中、地図としては昭和初期のモノが残っておりましたので、ここでご紹介したいと思います。出典等は旧漢字表記になっていたり、写真が下手でボケていたりしますが(笑)、修正しておりますのでご了承ください。
昭和元年(1926年) 『豊橋商工案内(豊橋商業会議所)』の豊橋市街図より
昭和2年(1927年) 『最新豊橋市街地図(山田信二)』より
昭和3年(1928年) 『豊橋商工案内(豊橋商工会議所)』の豊橋商業会議所地区内図より
昭和3年(1928年) 『豊橋市市制施行二十年誌(豊橋市)』の豊橋市街地図より
昭和5年(1930年) 『豊橋市とその附近(豊橋商工協会)』から吉田初三郎作の珍しい鳥瞰図より
以上が愛知県図書館で見せて頂きました貴重な豊橋競馬場が残る資料(地図)でありました。この地図を一週間眺めながら(笑)、先ずは最初に競馬が行われたと言われる『歩兵第18連隊練兵場』を探しに、豊橋市内の奥深くに?入り込んでいきました。
場所は豊橋市役所~吉田城跡~豊橋球場一帯にあったと言われており、先ずは豊橋球場へと向かい石碑等がないかなと探してみることにしたんですが、やはり広い敷地内・・・私も助っ人の子供たちもどうやって探そうか???と考えていましたら、豊橋球場の管理事務所がありましたので、そこで話を聞いてみました。すると・・・やはり郷に入れば郷に従え(これが当てはまるのか?)とばかり、年配の職員の方からこの建立碑を教えて頂きました。また年配の方でしたので(失礼!!)、今回の豊橋競馬場の話を聞いてみると、競馬場の存在を知っておられ隣に隣接する豊橋市美術博物館を紹介して頂きました。
豊橋公園は吉田城跡、美術博物館、三の丸会館、軟硬式テニス場、陸上競技場、野球場、プール等、戦災復興事業のシンボルとして整備された複合施設の走りのような場所になっています。実は私も豊橋とは何かと縁の深い人なんですが、今回初めて行った場所で、なかなかにいい場所でありました。
さて豊橋美術博物館では、残念ながら紹介された学芸員の方はお休み(日曜ですからね)でお会いすることはできなかったんですが、他の学芸員の方が気持よく応対して下さり、私のつまらない(趣味性の高い)この取材にも興味を持って頂けて、後日また連絡させて頂くことも快く応じて下さりました(感謝します)。学芸員の方は『今や専門家より一般の方の調査能力(行動力)の方が上ですから!!』なんて上手なお世辞に乗せられて、この競馬場取材を挫折するのはいかんぞ!!! と気持ちも新たにした私でもありました。
その学芸員の方に競馬場があった場所を大体、教えて頂きいよいよ競馬場に向かうのでありました。場所は下記にヤフー地図から地図と航空図を載せておきました。どうです?上の地図と見比べて共通点を見いだせますか?
まずは市電の路線図が載っていましたので、競輪場前の停車場にあった豊橋鉄道の営業所を訪ねてみました。さすがにこの当時を知ることはおろか、ここに競馬場があったということも、みなさん知りませんでした(当たり前ですよね、昭和の初めなんですから・・・笑)。ただ、やはり飛び込みで聞いてみるものです。昔と今とでは市電の走っている場所が変わっており、手に入れた地図は既に廃止されていた路線とのことでした。昔、昔、地図にもありますがここには『遊郭』があったため、そこへ市電が走っていたとのこと、街を歩いてみるとそんな名残も所々に残っている場所でした(今回は書きませんが)。
それでまあ歩きながら雰囲気をつかめれば!! と思い競輪場前の交差点から南下してたどってみました。今回は iPhone 3G のGPSが活躍してくれました。地図とGPSとのにらめっこで、自分の現在位置がすぐに分かりますから。これも今回からの新しい武器になりました!!
そんな感じで歩き始めてから・・・不意に気がついたのがこれから見て頂く写真なんです。私が感じたこと、みなさんはいかに?
写真は順番に競輪場前交差点を南下、Y字交差点を左に公園の方へ、コーナーを回って直線に向かう・・・どうです?競馬場の名残に見えてきませんか?実は最初に歩いた時にはキョロキョロ周りばかり見ていたので気がつかなかったんですが、二回目に歩いた時にふと思ったんです。もちろん、次の取材で地域の都市計画の変遷などを図書館や美術博物館で確認したり、伺ったりもするつもりなんですが、今回の取材で推理する楽しさ?も発見してきました(思い込みだったりもしますが・・・笑)。これが競馬場の名残だったりしたら・・・こんなに嬉しい発見はありませんし、フィールドワークの醍醐味(やはり地図だけでは分かりませんから)を味わえたのかな~と行ってよかったな~と子供たちと喜んで帰宅の途に着いた次第です。
今回の取材では豊橋球場の職員の方、豊橋市美術博物館の学芸員の方、豊橋鉄道の方々、地域のお寺の方、果ては交番のお巡りさんまで(笑)、お話を伺ったんですがみなさん豊橋に競馬場があったということを知っていた方は少なく(というか球場の職員の方だけでした)、とても興味を持って嫌な顔をされることなく、丁寧に質問に答えて下さりました。息子たちはやはり恥ずかしくないの?と聞いたりもするんですが、悪いことをしているんでもなく、キチンと事情を話して質問すれば、誰しも嫌なものではないよ・・・と教えながら『社会勉強(になったのかな?)』も出来たのかな~(体現できたのかな~)と思う今回の取材になりました。まだまだ新しい資料や事実が出てくるかもしれません。またこれからも随時、取材は続けていきますので、新しく分かったり書かなきゃ!! と思った時は、またこの『豊橋競馬場』に関しては、書いていきたいと思っています。まだまだ続きますが、一週間の中で一番楽しい時間の過ごし方かもしれません!!!
追伸:競馬がらみですが・・・ノリピー、ダービー制覇おめでとう!! そして豊君も雪辱したかな? 私が買わない時に予想した二人が1~2着!!! 嬉しいような悲しいような・・・!!
昨日もTwitterやMoblogからチラッと書いておりました今回の連載『古の競馬場を訪ねて』の取材にて、愛知県は名古屋市にあります『愛知県図書館』に行ってまいりました。先日の記事でもご紹介していました『レファレンスメール』で、所有されている蔵書等はチェックできていましたので、そのメールを持参して今回の取材は始まりました。
早速、そのメールを提示して相談員窓口で蔵書について尋ね始めたんですが、意外に?その相談員の方がこの件に関して詳しいので『図書館の方って誰もが、自分のところの蔵書に詳しいんだな~』と感心していたんです。ところが話しているうちにどうやら・・・と思い、
『このメールって・・・?』
『はい、私がお答えしました』
いやいやビックリしました(笑)。何人かの窓口になっていて、多くの方が相談員としておられた中で、ピンポイントでメールを送ってくれた方(調べて頂いた方)と出会うなんて!! さすが日頃の行いの良い私の成せる業でありました!!! それが分かってお互い恥ずかしいやら知り合いやらの感覚で、チョット?打ち解けて蔵書について調べたり、説明を受けておりました。何か顔を知らない文通相手に会ったような?オフ会でブログの書き手に初めて会ったような(笑)、そんな気分を久しぶりに味わった感じであります(余談ですね・・・!!!)。
今回も全てが書庫の中の文献ということで、傷んでいたもの、コピーを取るのも不可能なものと貴重な資料を見せて頂きました。今はデジカメがありますのでそのあたりは写真に撮って持ち帰ってきたんですが、やはり公共の所有物ということで、撮影するに当たっても『どこの何ページを撮影』という申請書を書いてきました。コピーに関してはお馴染だと思うんですが、今回は撮影に関しても貴重書閲覧(普段とは別の机にて)場所で、少々緊張しながらの取材にもなりました。まあその題材が競馬場ですから、相談員の方と話をするのも恥ずかしかったんですが・・・笑。
さてそんな今回の取材、Wikiや様々なサイトで多くの方が書かれている廃止競馬場のお話。そのベースとしてどのサイトでも参考文献として挙げられているバイブル的文献『地方競馬史 第一巻』(地方競馬全国協会 1972年)に私も初めて会うことができました。これも書庫に眠っている文献でしたが、貸し出しも可能ということ。今回は図書館にてある程度書き出しておいて、必要な個所だけコピーして持ち帰ってきました。さすがにバイブル的文献ということで、今回の連載のベースになる様々な内容(個別の競馬場についても)があり、いつも書きますがこれを私がどう料理するのか???が一番のカギになってくるな~と、またしても不安な気分になってくる私でありました(笑)。
そんな今日はこの連載の概論として『愛知県の競馬の歴史』をまとめてUPしておこうかな~と思います。これから各競馬場の話になっていくんですが、そのベースとしての流れをここでまとめておきます。出典はもちろん『地方競馬史 第一巻』 の愛知県からです。
愛知県の競馬の発祥
奉納の風習による飾馬、駆馬の奉納
祭典競馬の開催(代表的な開催)
・宝飯郡豊川町豊川稲荷社
・海部郡津島町国幣小社津島神社
競馬規程による開催の歴史
(競馬規程:明治41年/1908年及び改正競馬規程:明治43年/1910年)
大正10年(1921年)豊橋市にて北設楽郡畜産組合が主催(歩兵第18連隊練兵場にて)
大正11年(1922年)一宮市にて北設楽郡畜産組合が主催(場所の明記はありません)
大正12年(1923年)岡崎市にて愛知県畜産組合連合会が主催(愛知県種畜場にて)
大正13年(1924年)岡崎競馬倶楽部組織(愛知県種畜場を借入)及び豊川競馬倶楽部組織(豊川町内に競馬場を新設)
大正14年(1925年)一宮競馬倶楽部組織(競馬場を新設)及び豊橋競馬倶楽部組織(競馬場を新設)
昭和2年(1927年)地方競馬規則の制定
・名古屋競馬倶楽部組織
・名古屋競馬協会組織(名古屋+岡崎+豊川の各競馬倶楽部)
・岡崎競馬場の廃止
・豊川競馬場の廃止
・名古屋競馬場の新設(西春日井郡川中村)
昭和5年(1930年)一宮競馬場の自然廃止
昭和6年(1931年)
・豊橋競馬場が岡崎市羽根町に移転(岡崎競馬倶楽部が譲受、愛知県畜産組合連合会が借受開催)
・名古屋競馬場が名古屋市南区稲永新田に移転(愛知県畜産組合連合会が開催=名古屋競馬協会との関係を断つ)
昭和11年(1936年)名古屋競馬場が丹羽郡岩倉町に移転
昭和14年(1939年)軍馬資源保護法の制定
・軍用馬保護鍛練中央会に移り地方競馬規則の廃止
・名古屋競馬場の廃止
・岡崎競馬場が鍛練馬場となる(昭和18年まで)
昭和20年(1945年)終戦
・軍馬資源保護法の廃止
昭和21年(1946年)地方競馬法の制定
・岡崎競馬場が再開
昭和23年(1948年)(新)競馬法の制定
・地方公共団体による開催(愛知県、名古屋市、一宮市、岡崎市、豊橋市)
昭和24年(1949年)名古屋競馬場の新設(名古屋市港区泰明町)
昭和28年(1953年)
・岡崎競馬場の廃止
・中京競馬場の新設
ここまでが現在における愛知県の競馬場の変遷になります。今回の取材でも新たに分かったこととして、豊川及び一宮にあった競馬場の存在が挙げられます。特に一宮市は他の競馬場(例えば豊川なら豊川稲荷、豊橋なら軍の施設、岡崎は種畜場)と違って、設立(開催)された根拠が見えにくくこの辺りも新たな宿題になったのかな~と思っています。調べれば調べるほど新たな発見や宿題が見えてくるこの連載。意外に短期間(短時間)で終わるのかな~と思っていましたが、いえいえ時間がかかりそうです(笑)。でもこの宿題、期限はありませんのでノンビリと趣味の域を超えずに?これからも書いていきたいと思っております。何事も焦ってはいけませんから(昔の私???)。
それでは今日のレポート提出はこれで終了いたします!!!
先日の記事でもご紹介しました私の次期シリーズであります『古の競馬場を訪ねて』。今回は第一回目ということで、その事前準備で岡崎市にあります『Libra 岡崎市図書館交流プラザ』へ取材に(笑)出かけてきました。一応、様々なサイト、図書館の蔵書、地理的なことの準備は進めていたんですが、いよいよ本格的なスタートということで学生時代に戻った『自由研究』のような気持ちでおります。先生は(採点は)皆さんですので???いつもながらに優しく、お手柔らかにお願いします!!!
ところでこの図書館、今までのイメージを覆す?素晴らしい図書館でした。場所は名古屋方面から国道一号線を岡崎方面へ、矢作川を渡り岡崎城が見えてきたら看板が出ていますので、そこを左に曲がるとすぐにありました。先ずはその建物の規模にビックリ!! コンサートホールのような佇まいでありました。またその規模(豪華さ)から来られる方も多く、駐車場へのルートはクルマの渋滞となっておりました。私たちも(息子二人も同行)渋滞にはイライラせず、ノンビリと駐車場が空くのを待っておりました。
あまり長く待つこともなくクルマを止めていざ中へ・・・ここでも驚くことが様々起きました。この施設のテーマは4つ、中央図書館、活動支援、文化創造、交流というもの。ざっとご紹介すると・・・
中央図書館=通常の図書館、子供図書室の設置、そして今回の取材で大変お世話になった『レファレンスライブラリー』。このレファレンスライブラリーはその名の通り、地域資料、専門的資料等を相談員の方とともに探したり、話したりできるコーナーなんです。私も事前に蔵書等は調べていったんですが、大きいフロアでしたので一緒に探していただいたり、秘蔵の資料を出していただいたりと、今回の取材に新しい『息吹』を吹き込んで頂きました。また色々と教えて頂いたり、こちらも教えさせて???頂いたりと、図書館の名の通り交流も深めることができました。いつもながらですが、ここでお礼申し上げます。
活動支援=生涯学習、社会貢献活動等の支援を行うスペースで、市民活動総合センター、活動コーナー(ミニ会議室)・印刷作業室、ネット・紙媒体による情報コーナー、会議室や調理室まで備えて、あらゆる市民活動をサポートしています。
文化創造=292席のホール、スタジオ、ギャラリー、創作室、そしてジャズ愛好家『内田修ジャズコレクション展示室』とジャズの苦手な私でも十分に楽しめるスペースまでありました。音楽好きな人には最高の施設かもしれません。
交流=下記の写真の交流スペース(ショッピングモール=複合施設のようでした)、川を臨める読書広場、芝生広場、乳幼児室、各種催しや野外展示や活動のできるストリート広場、カフェ・レストランもありました。
まさに市民が交流、発信をサポート、提供してくれるこのスペース。初めてでしたが行ってよかったな~思っています。調べものばかりで子供たちは色々と見て回ったようですが、時間の関係で私は図書館にしか行けなかったんですが、次回はジャズスペースやその他の場所も行ってみたいなと考えています。
そんな今日だったんですが、色々と今までネットでは発見できなかった資料も教えて頂き、手に入れてまいりました。次回ではフィールドワークで得意の?現地取材をする予定ですので、まとめて記事にいたします。とにかく愛知県の中では素晴らしい図書館の一つに出会いました。お近くの方はぜひ、この施設に立ち寄ってみてください。一見の価値はあると森の人が保証します・・・・大丈夫?
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