今年に入ってお正月(年始)に抱負なるものを書いて以来、全くの音沙汰もない『音信不通』の状態が続いておりましたこのブログ(笑)。振り返って手帳を見直してみて仕事、競馬、次男の高校入試とあまり公開すべきこともなかったのかな~と思いきや・・・・デヴィッドの誕生日(1月8日)に突如リリースされたニューシングルと来月に発表されるニューアルバム、教授の昨年のツアー及び大河ドラマ『八重の桜』の楽曲配信開始(1月30日)などネタはあったようにも思われますが、書けなかったですね~今年は。まあ、なぜに書けなかったかはおいおい今回のシリースで分かってくるのかもしれません。自分にも、読者の方々にも。ちなみに探訪記と呼べるほどの旅にも出かけておりません。
さて予告通り、今回からこの音信不通の間にも印象に残る言葉をあちらこちらで見かけて、それに関しては手帳にメモ書きしておいていつかは書こうか?と思っていたことがありましたので、今日はこんな言葉を取り上げることにしました。
>ライブに行った際、そのライブは現在のアーティストのスタイルであって自分が見たい、聴きたいと思うスタイルとは異なることが多い。自分が見たい、聴きたいものはアーティストにとっては過去のスタイル。過去を求めてしまう(自分の見たい、聴きたいもの)自分とのジレンマを受け入れられるか否か、難しいこともあります。(まるまる書くと支障がありますので抜粋、意訳してあります)
この言葉を見て(読んで)自分がロック(洋楽)を聴き始めた頃のことを呼び起こしました。当時はレコード全盛、ミュージックビデオが頻繁に流れることもなく、レコードの音、ジャケット、音楽専門誌のグラビア(笑)で思いを馳せたりしていました。またライブ盤(ライブビデオ、ライブDVDではありません)やラジオのオンエアを擦り切れるまで聴きながらライブにも思いを馳せたりもしました。そして待ちに待った来日によるライブ、もちろん動く姿を見られることだけでも(そこに存在しているだけでも)感動的な時代ですから(笑)最初は存在感だけにも圧倒されていたんですが、そのうちに上記の違和感(自分が今まで聴いてきたものとのズレ)を覚え『ここはこうじゃないんじゃない?』と自分の中の楽曲をついつい押し付けてしまい、それが自分の思い通りの演奏だったらいいライブ、異なる演奏だったらつまらないライブだったと思ってしまう自分がいたりもしました。
今考えるとそれは当たり前のことであって、アーティストは過去の遺物を引きずって今があるわけではありません(まあ一部にはあるかもしれませんが・・・・笑)。楽曲も演奏スタイルも日々変わっていきます。それは聞き手でもある私たちにも同じことが言えます。ただ、記録としてのメディアは時間を止めてしまうこともあります。自分が一番お気に入りのものは永遠に残る(聴ける)メディアとして存在するんですが、それは既にアーティストにとっては過去の自分。その過去を求められても・・・・何年も前の日記を読み返してあの時はそうだったじゃない?と自分に言われても、その時はそうだったけど人も変わってしまうよ!!! という分かり易い例えが一番いいかもしれませんね(笑)。
昨年末に30年近い隔たりを持って(笑)高校の同窓会に行った時も同じことを思ったかもしれません。甘~い記憶、卒業アルバムなどの記録でストップしていた幻想が現実に変わる時もこれに似た感覚だったのかもしれません。
さて、このこと(言葉)から何を私が思ったのか?
それは変わりゆく現実を幻想を捨て受け入れられることができるのか?こんなことでした。過去の記憶、記録、思い、事実を捨て(考えを変えて)今を受け入れられるか?否か?受け入れるのは勇気がいります。否定するにはパワーがいります。そんな現実に直面した時、自分はさて・・・・
今日はこの辺りにします!!! チョットお話が今朝の名古屋のようにどんよりとした感じになっちゃいましたね。次回はもっとどんよりするかもしれません(笑)!!!
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